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「自分の機嫌を自分で取れる人が私は好き」といった趣旨の考えについて。

たぶん他の色々な人同様、これは上手いなと思った。確かに、私も打たれ強くていつもニコニコしていて、怒らない人の方が、楽だ。



でも同時に違和感があった。

違和感の理由はなんだろう。何か図々しさのような、あるいはある種の不健康さを感じた。



だらだら書いて、整理したい。

書いてる人:Yuki Hirata

①結局、「私の都合の良いように振る舞え」と聞こえる

自分で機嫌の取れる人=嫌なことがあっても、ニコニコしてくれる人。いいヤツだと思う。でもいいヤツって、結局、そいつ以外にとって、都合の良いやつではないか。

「……機嫌を取れる人が好き」という”他人に対する評価”っぽい言い回しにも、私は違和感を感じているんだと思う。「自分の機嫌を自分で取っていきたい」のように、自分指向の発言であれば、この違和感はなかったはずだ。もちろん感じの良い人だろうし、生活を楽しもうとしているニュアンスも素敵だと思う。

他にも、「自分の機嫌くらい自分で取れよ」という非難や、「……機嫌くらい自分で取らなきゃ」などのように、戒め的な発話が印象に残っている。「あなたの感情はしらんけど、感じのいい人間でいろよ」とか、そんな風に聞こえてしまう。当然、誰かにとって都合のいい人間の方が、愛され気に入られやすい。でもそれが標語のように流布するのは少し不気味なのだ。

話は脱線するが、日本語の言語学には「情報の縄張り理論」というのがある。日本語は、「その情報が誰に属するものなのか」に敏感なのだそうだ。「感情」という情報が誰に属するのかも、慎重に扱わなければならない。例えば、第三者の部長を主語にして「最近部長は、休みが欲しいです」という発話には違和感があるのだ。かわりに「最近部長は、休みを欲しがっています」というように、あくまでも感情は第三者の縄張りにあることを言語的に表現しなければならない。

「自分の機嫌くらい自分で取れよ」という発言にも、この縄張りを侵犯しているような、違和感があるのかもしれない。

この言葉を使う人たちは、別にそこまで考えていないはずだし、別に考えなくてもいいと思う。でも私が抱いた違和感の種になっているのは間違いなさそうだ。

②「好きなこと=ご機嫌取り」がちょっと悲しい

誰にだってきっと、好きなことはある。その好きなことやったら、そりゃ自然と機嫌はよくなるかもしれない。でもそれはあくまでも、「好きなことをする」が目的であって欲しいし、「ご機嫌取り」はおまけでいてほしい。機嫌を取るための道具だったり、ましてやそれが他人の目を気にしたものだったりするのは、ちょっと悲しいように思う。

「自分で自分の機嫌を取る大人が好き」、「自分で自分の機嫌を取れない大人は嫌い」、「自分で自分の機嫌を取れないのは未熟だ」というアイデアが広まってしまうと、「本来自分を楽しませるためのもの」が、他人本位の道具になってしまう……なんだかそれが怖いなと思っている’。

好きなことをやった代償に、不満を抑圧することにならないか不安だ。(考えすぎかな。いやでもこういうの一人で考えるのが楽しい)

③問題があるとき声を挙げにくくなる。

「大人なんだから、自分の機嫌くらい自分で取れ」と強い言葉が選ばれることは少ないかもしれない。しかし、「自分で自分の機嫌を取る大人が好き」からは、「不機嫌なのは子供、いつも機嫌がいいのが大人」と言う命題を大人に向けて発していることにもなる。

これが怖いところだと思う。反発を受けずに、知らぬ間にいつの間にかタブーのような空気を醸成することができるからだ。

問題があるとき、違和感を感じる時、その嫌な感情を伝えることは人間の根源的なコミュニケーションの一つだと思う。

それが、「自分は機嫌を取れていない、子供のように見られるかも」「人間として未熟に思われる」という憂慮によって封じられてしまうのは、不健康だと思う。

一見端切れのよい言葉が、衝突やモヤッとしたことを表出することに対して、罪悪感と恥を感じさせてしまいそう。

誰だって嫌に思うことは、爽やかに共有できる方がいいと思う。

まとめ

ある程度自分を騙して生きるのも有用だと思う。小さなうまく行かないことや、どうしようもないことはある。それを(「今日は俺の日じゃないな」なんて言いながら)美味しいごはんを食べたりして気分良く過ごすというのはもちろん大事。でもそれは他人だけじゃなく、自分のために、である。

 

もちろん自分にまったく関連のない怒りを、関係のない自分にむけてくるのであれば、「大人なんだからやめてよ」と感じるのは仕方がないと思う。

 

それでも、ただ単純に機嫌が悪い程度であれば、話を聞くくらいはしたい。公私混同でもよい。プライベートで起きた問題を職場で聞くのも全然オッケー。問題が職場に関連しているのであれば、なおさらウェルカムだと思いたい。

 

もちろん全員がいつでもこの手の相談に乗るべきとは思わない。面倒な時もあって当然。

 

だからといって、「自分の機嫌すら取れないのは子供だ」というような言説が歩き回るのは、気持ち悪い。

 

自分の気持ちのいいリストは充実させ、他人と共有すると良さそうだけど、問題があるなら言ったほうがいいし、むしろカジュアルにいつでも言えるようにしておいたほうがいいよね、と思う。

 

「自分の機嫌を取る」は面白い表現だしうまいな~と思うけど、こんな感じでちょっと暗い部分もあるのかな、なんて思った。

 

書いた人:Yuki Hirata


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